グイノ・ジェラール神父の説教


2015 B年

年間の主日


第2〜第12


年間第2主日
年間第3主日
年間第4主日
年間第5主日
年間第6主日

年間第11主日
年間第12主日

        年間第2主日B年    2015118日   グイノ・ジェラール神父

               1サムエル3,3-1019   1コリント6,13-1517-20  ヨハネ1,35-42

    仲介者のお蔭で、人が神と出会うことが出来るということを今日の朗読は語っています。 年老いた祭司エリは、幼いサムエルに神の言葉を聞き分けることを教えました。 同様に洗礼者ヨハネは、従うべき「神の小羊」を弟子たちに指し示しました。 またイエスとの出会いに満たされたアンドレとヨハネは、自分たちの兄弟シモンとヤコブをイエスの所に連れて行きます。 同様にフィリッポはイエスと出会うように、友のナタナエルを説得しました。 信者として私たちの使命は、これです。 つまり、神が待っているところに尊敬を持って控えめに謙遜に人々を導く事、それは彼らが神と共に留まる事、神の現存の内に生きる事ができる為です。

    神は先ず私たちの心の奥深くに居られます。 若いサムエルが聞き分ける心を持っていたので、祭司エリの勧めに従う事と神の言葉を聞き分ける事が出来ました。 アンドレとヨハネが約束されたメシアを待ち望んでいたから、洗礼者ヨハネの言葉を信じて直ぐイエスの後に歩み始めました。 コリント教会の信徒への手紙の中で、聖パウロは私たちの内面的な生き方と、私たちの外面的な生き方を結び付ける神秘的な繋がりについて語っています。 神に近づき、神と出会う為に、私たちの心の内に芽生え熟する神を見つける望みは、私たちの日常生活と和合させ一致しなければなりません。

    勿論、神を見つけるためには仲介者は必要ですが、最も大切なのは神と共に留まる意志と決意です。 聖ヨハネは自分の福音の中で「とどまる」という単語を37回使っています。 聖ヨハネにとって「とどまる」ことは、三位一体の神秘の内にイエスが父なる神と味わっている親密さを思い起こさせます。 この様にアンドレとヨハネがイエスに「どこでとどまっておられるか」と尋ねる時、それは「あなたはどこで住んでいるのですか」を意味しません。 むしろ「もし、あなたは本当に神の小羊であるなら、神とあなたの関係を私たちに見せてください。 そして、私たちもあなたのように神の親密さにとどまることを私たちに教えてください」と言う意味です。 私たちの体が聖霊の神殿であると言った聖パウロは、私たちの体が神の親密さの中に生き、留まらなければならないことを教えています。

    聖ヨハネの福音の中のイエスの最初の言葉は、「何を求めているのか」です。 私たちはキリストを見つけて信じたので、この質問は次の様に聞き取れます。 つまり「あなたはどこで私を探し求めるか」と。 教会は簡単にイエスを見つける場所を教えています。 先ず、キリストは教会の秘跡、特にイエスの死と復活の秘跡である聖体の内に留まることを教えています。 また、イエスは神の言葉の内にそして自分の名によって集まっている人々の間に留まっています。 更に、不正義、苦しみ、貧しさ、苦難の状況の中に置かれている人々の中にもイエスを見つけることが出来ます。 最後に、私たちの心の奥深くにも、イエスは留まっていることを私たちは知っています。 特にここでイエスと出会わなければなりませ。 何故なら世の終わりまでいつもイエスは、私たちの内に私たちと共に留まるからです。

    イエスが留まることを知っているので、イエスを見つける為に何をしたら良いかについて考える必要があります。 この面で私たちは、自分の自由と責任の前に置かれています。 神の言葉を絶えず注意深く聞く事、そして聞いたことを日常生活を通して実行する事がなければ、神との出会いは不可能です。 神の親密さの中に生きるためには、勿論祈る事と感謝する事が必要ですが、最も重大なことは自分の内に神の現存を深く味わう望みを育てる事です。 自分の心の奥深くにある神の呼びかけを聞き分けるために、沈黙と静かな場所は具体的な助けとなります。 最後に定期的な霊的指導、或いは一週間の黙想は神との緊密関係で生きることを容易にします。 人は愛されることで愛することを学びます。 同様に私たちは、神の現存のしるしとなる為に、神が私たちに出会うことを承諾しなければなりません。

  ですから、今日の日に当たって、神がご自分の現存に私たちの心を開く恵みを願いましょう。 また神が、このミサ祭儀を通して隠れているイエスの現存を発見し、見分け、感じる恵みが私たちに与えられますように。

   アンドレは、確信を持って自分の兄弟シモンに「わたしたちはメシアに出会った」と言いました。 信仰の内に神との出会いのお蔭で喜びと確信を持って「実際に神がおられる、私たちは彼に出会った」という宣言が出来ますように。 アーメン。



          年間第3主日B年   2015125日  グイノ・ジェラール神父

              ヨナ3,1-510  1コリント7,29-31   マルコ1,14-20

   マルコの福音のすべてのページには「すぐ」と言う小さな言葉が散りばめられています。 自分の福音を書き記す時、マルコは聖パウロや聖ペトロや他の使徒たちと同じように、「キリストの再臨」がとても近いと信じていました。 時間が切迫しているので、人が回心するために、もう待つことが出来ません。 そう言う訳で、マルコは自分の福音を通して重大な忠告を与えようとします。 「時が満ち、神の国は近づいた。 回心して福音を信じなさい」と。

    この言葉でイエスの宣教活動が始まります。 聖パウロにとっても「定められたときは迫っている」ので、結婚することや未来のための計画を立てる事など、もう必要ではありません。 急いで回心するように促すこれらの誘いは、預言者ヨナの招きに繋がっています。 しかし、預言者ヨナはニネベの人たちが自分たちの悪い生き方を変えるように、40日間だけ許しました。

   マルコの福音によると、人を普通の生活から神の国に入らせる為に、イエスはガリラヤ湖のほとりで彼らと出会います。 聖書はいつも海と湖を恐ろしい場所として語り、またこれらの不安定な場所を罪と死の象徴とします。 当時のイスラエル人は、砂漠と荒れ地、海と水の淵は悪霊の住む場所だと思い込んでいました。 確かに、人は水の中で呼吸する事も生きる事も出来ませんので、水に沈んで死にます。 しかし、水の危険から引き上げられた人の命は救われます。 ノアの洪水の物語や紅海の中の出エジプトの出来事やヨルダン川の水での洗礼者ヨハネの洗礼も、神の望み、即ち神はどうしても深い淵に沈んでいる全人類を掬いあげ、救いたいことを思い起こさせます。 神は生きている人々の神ですから。

   イエスが最初の弟子たちを選んだのは、彼らをご自分の救いの計画に協力させ、参加させる為です。 ペトロ、アンドレ、ヤコブとヨハネは、湖の不安定な波に漕ぎ出ることに慣れている漁師でした。 イエスの後に従うことによって、彼らは死と罪の場所から離れ、命溢れる活動を始めます。 今から後、彼らは「人間を釣り上げる漁師」になるのです。 イエスの弟子たちの使命とは、イエスと一致して、イエスと共に全力を尽くして、死から命へ人々を掬いあげることです。 その為に、弟子たちは、家族的で友情的な絆や自分の仕事や所有する家や持ち物すべてを捨てる必要がありました。 ただ神だけが、自分たちの生き方を支配しなければなりません。 そして、ただ神だけが彼らの宣教の中心と目的でなければなりません。

    神に向かうことやイエスの福音の良い知らせを信じることは、新しい世界に人を入らせます。 つまり、人は仕事や人間関係、個人的な計画や全ての物事にはるかに勝っている、神との親しい関係を味わうことの出来る、神の国に入るのです。 イエスの傍に生きることによって、弟子たちは自分たちの住んでいる世界は消え失せることが、段々と分かりました。 ですから「回心して神の福音を信じること」は、最も望ましい肝心なものを受け止める為に、普通の生活に慣れている物事を退けることです。 問題は、何を退けたかを私たちが知っていても、自由に選んだ将来がどうなるのかは全く分かりません。 という訳で、神における揺るぎない信頼だけが、完全な回心に私たちを導くことが出来ます。

    神との一致が完成されるように、どこかで自分たちの生き方を正す必要があることを私たちは知っています。 ですから預言者ヨナと聖パウロの勧めに従いましょう。 回心することに遅れずに、一日だけでは私たちは完璧にならないので、生き方を変える為に始めた努力をし続けましょう。 イエスだけが、愛の完成まで私たちを導くことが出来ますので、いつもイエスに目を注ぎましょう。 「時が満ち、神の国は近づいた。 回心して福音を信じましょう」。 聖霊の交わりの内に、イエスを案内人として私たちは大切なことを見分け、それを実現する事、そして命溢れる役に立つ選択をする事を学びましょう。 アーメン。



          年間第4主日B年   201521日     グイノ・ジェラール神父

                申命記18,15-20  1コリント7,32-35  マルコ1,21-28

    安息日の日、カファルナウムの会堂でイエスは自分の内にある神としての権威を、自分の教えと行いによって表し啓示しました。 会堂の人々はイエスの言葉と行いに非常に驚きました。  皆は、イエスが「律法学者のようにではなく、権威ある者として教える人だ」と言う事実を認めなければなりませんでした。

    ちなみに、律法学者の教えは特別につまらないものだったという事を信じてはいけません。  むしろ、律法学者たちは聞く人々の注目を集める事がとても上手でした。 イエスの時代の律法学者は、いつも次のような言葉で自分の教えを始めていました。 「ご存じのようにある有名な律法の専門家は次のように言いました…」と。説教をする時、イエス・キリストの司祭である私たちも自分の言いたいことを確認する為、あるいは主張する為に、聖パウロ、聖ルカ、または教会の教父や聖人の言葉を引用しています。

   イエスは、有名な律法学者や評判の高い人や預言者の証言を盾に取りませんでした。 イエスは、神との直接のご自分の体験から語られるのです。 またイエスは、律法学者や預言者たちの教えを説明するだけではなく、むしろ自分の心の奥深くから出てくるものについて、直接に語っておられます。 イエスは神の言葉であるからこそ、自分のすべてで人々を教えています。 しかし、カファルナウムの人たちはそれを知らなかったので、彼らはお互いに質問し合いました。 「この人は一体誰でしょうか?」と。 マルコは自分の福音書の至る所で、この質問を繰り返します。 人々はイエスを見て、イエスの話を聞いて、少しでも理解しようとして考えれば、少しずつでも段々正しい答えを見つけることが出来るでしょう。

   しかし私たちに正しい答えを与える為に、マルコが福音を書き記すのを悪霊は待ちませんでした。 悪霊はすぐ叫びます「ナザレのイエス、あなたの正体は分かっている。 神の聖者だ」と。 悪霊に取りつかれた人は、自分を支配する悪霊と一致して次のように叫びます。 「ナザレのイエス、我々をかまわないでくれ。 我々を滅ぼしに来たのか」と。 会堂で叫ぶ人をイエスが直ぐに黙らせ、彼を悪霊から解放する理由は、イエスを知る為であり、キリストを知る為に人々がstep by stepで進まなければならないからです。 イエスの本当のアイデンティティーを知る為には、人は一歩ずつ進むべきです。 イエスについて人々が自由に、またゆっくり考えて、その人固有の意見を抱かなければなりません。 そのためには、イエスについて深く考えることが肝心です。 私たちはイエスを発見し理解するために、イエスが話したこと、行ったことについて度々よく考え、よく黙想しなければなりません。

   正直に言えば、私たちは本当に人に向かって「私はあなたを知っている」と言えるでしょうか? すべての人の内に、私たちが触れることの出来ない神秘性が必ずあります。 ましてイエスについて、その神秘性はどれ程深いものでしょうか。 人を知る為には理論的に優れた知識だけではとても足りません。 いくら私たちが高いレベルの神学的な勉強をしても、また聖書とキリスト教の専門家になっても、私たちはイエスを知っているということにはなりません。 イエスを深く知る為に私たちは、どうしてもイエスと共に歩むこと、イエスと度々出会うこと、そして特にイエスを愛することを学ばなければなりません。 「イエスを知っている」と叫んだ悪霊に足りなかったものは、愛でした。 悪霊は愛を持っていないので、イエスについての悪霊が与える証しを受けられないのです。 ですから、イエスはすぐに悪霊を黙らせて追い出しました。

   私たちもイエスに向かって「私はあなたを知っている」と言えるでしょうか? 私たちの生涯に渡って、イエスご自身が自分の神秘を少しずつ啓示しない限り、私たちがイエスを知ることは不可能です。 そう言う訳で、私たちは詩編の言葉を借りてイエスに次のように繰り返します。 「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください」(詩編25,4)。 「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください」(詩編4,7)。 「神よ、あなたはわたしの神。 朝早くからわたしはあなたを捜し求めます」(詩編63,2)。 イエスと共に歩みながら「主よ、いったいあなたは誰ですか?」と絶えず問うなら、きっと私たちは少しずつキリストを発見し、イエスの神秘性を味わう事が出来るでしょう。

   ですから、神の言葉が私たちの心の内に深く入るように謙遜に神に願いましょう。 今日のミサ祭儀によって、私たちが以前よりもイエスに近づけますように。 恐れずに、信頼を持ってイエスに自分が持っている身体的、精神的、霊的な病気や悩みとあらゆる傷を見せましょう。 悪に対するご自分の権威によって、イエスは私たちを解放し、自由にし、新しい生き方へと導きます。 ですから私たちは、心から神に感謝するでしょう。 「主はわたしに偉大なことをなさいましたから。 その御名は尊いです」(ルカ1,49)と。 アーメン。



           年間第5主日B年   201528日    グイノ・ジェラール神父

             ヨブ記7,1-4,6-7  1コリント9,16-19,22-23  マルコ1,29-39

    世界中に響く苦しみの叫びを聞くことは、教会の使命だと今日の朗読が思い起こさせます。 昔、ヨブがしたように、現代でも数えきれない多くの群衆が厳しい試練にさらされて、その苦しみを叫んでいます。 私たちを癒す為、私たちを圧迫する災いを担う為にイエスは来られました。 聖パウロが自分自身について証ししたように、イエスは「すべての人に仕える奴隷になりました。 いっそう多くの人を救う為です」(参照:1コリント9,19

   世界の混乱を前にして神は幻の約束をしたり、また手品の奇術のような技をしません。 神はいつもの通り、悲劇的で耐え難い日常生活で私たちと出会います。 確かにイエスは人を癒し、悪霊を追い出し、軽蔑された人に社会的な立場を取り戻します。 またイエスは罪を赦し、死者を生き返らせます。 このようにして、イエスは神の似姿で作られた人間に失われた尊厳を取り戻します。 イエスはすべての人に仕える僕となりました。 つまり、味方と敵、正しい人と罪びと、男性と女性、あるいは子供、ユダヤ人と異邦人、金持ちと貧しい人、病人と健康な人にイエスは仕えます。 キリストの使命は今、教会の務めとなりました。 何故なら教会は、イエスのはしためであり、特に小さな人々や苦しんでいる人々のはしためであるからです。 しかし、イエスに倣って、教会は出来るだけ大勢の人を救う為に他の人々を無視してはいけません。

   最初に宣教の為に自分の弟子たちを遣わされたイエスは、彼らに特に病人を癒す事と悪霊を追い出すことを頼みました。 そして、神が収穫の為に働く人を遣わすように彼らは祈らなければなりませんでした。 祈りは魂の健康のしるしです。 祈りは魂と体の支えと癒しの泉です。 祈りは希望と勇気を再び与える力です。 その為にイエスはいつも夜通し祈っていました。 祈りの内にイエスは奇跡を行う力を引き出しました。 キリストの教会も自分たちの語る言葉が、人々に聞かれるように祈る義務を持っています。 祈りによって、教会は人を癒し続け、また悪の攻撃からこの世を守っています。

   イエスはいつもの通りガリラヤ中の会堂や村々へ行って、そして新たな病人を目指して宣教活動をします。 「近くのほかの町や村へ行こう。 そこでも、わたしは宣教する」とイエスは弟子たちに言われました。 世界に広がっている教会は、イエスの使命を果たし続けています。 人が近づき難い村や場所でも、深い密林の中でも、また高い山の頂上でも、人が生きている所はどこでも、すべての人が救いの良い知らせを聞くチャンスが与えられるべきだからです。

   イエスは熱を出しているペトロのしゅうとめに手を差し伸べました。 元気になった彼女はイエスを真似て、自分の家に集まって来た人々に手を伸ばし、仕え、彼らをもてなしました。 姑は恵みを受けたので他の人々に何かを与えます。 これこそ、神の国の理論的な反応です。 この理論に従って、今度は人々は互いに迎え会う事を始め、そして互いに仕える人となって、イエスの所に町のすべての病者を連れて来ます。 これこそ私たちに委ねられた使命です。 つまり周りの人々に私たちは手を差し伸のべる人、彼らに仕える人とならなければなりません。 私たちの共同体は、すべての人を信頼と喜びの内に関係する共同体になるはずです。 そうすれば、武庫之荘の共同体も神の国の明白なしるしとなります。

   主の為にすることは、どんなに小さくて、つまらないことであっても、それは私たちの住むこの世界を癒し、また救いのために必ず貢献します。 もし自分たちの命をキリストの命と一致するなら、ヨブが強く主張したように地上での人生は、日々、行わなければならない奴隷の仕事ではなく、むしろ試練を照らす光、苦難を潤す喜びになるに違いありません。 そう言う訳で、イエスは私たち皆に「わたしに従いなさい」とおっしゃいます。 それは、喜びと光が私たちの人生を満たし、豊かにするように、そして大勢の人の為に私たちの生き方が慰めと癒しの泉となりますように。

  ですから、主にあって生きる為に、主と共に歩む為に、イエスの方へ一方の手を差し伸べましょう。 同時に、兄弟姉妹である全ての人にも私たちのもう片方の手を差し伸べましょう。 彼らに謙遜に使える為に。 アーメン。



      年間第6主日B年     2015215日   グイノ・ジェラール神父

             創世記3,16-19 1コリント10,31-11,1 マルコ1,40-45

    イエスの時代には、病人や体の不自由な人は不潔なものとして数えられています。 社会から追い出された彼らは、人に触れる事、神殿で祈る事、仕事をする事が許されていませんでした。 彼らはただ町の外で物乞いをする事だけが許されていました。 イエスの足元にひれ伏したライ病人は、自分の病気の状態に対する掟の全てを無視して、次のように願いました。 「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と。 病気のせいで人間の姿を失った嫌悪感を起こさせるその人を見て、イエスは深く憐れんで手を差し伸べて、その人に触れ癒すのです。 その結果、彼は追い出された社会の中に、もう一度自分の生きる場所を取り戻すことになりました。

    「行って祭司に体を見せなさい」と言って、イエスは彼に命令します。 癒された人は、普通の生活に戻ります。 死者の数に数えられていた彼は、もう一度自分の家族と出会い、昔の仕事に戻り、宗教的な活動に参加することが出来ます。 しかし、彼に触れることによってイエスが不潔な人となりました。 確かにイエスは私たちの全ての禍を背負う人です。 イエスが行われた奇跡は、自分の果たすべき使命からイエスを遠ざけるので、彼にとって奇跡は度々罠となります。 と言うのは、神の国の良い知らせを宣べ伝える為にイエスは周りの村や町を訪れるつもりだからです。 そういう訳で、自分がライ病人に触れたことを隠さなければなりませんでした。 ですから、癒された人をイエスは直ぐ追い出し、誰にも何も言わないように厳しく命令します。 しかし、この癒された人はイエスが実現した奇跡を至る所で言い広め始めました。

     彼の不従順に対してイエスは責任のある態度をとり、人里離れた所へ退きます。 癒された人の不従順のせいで、イエスは1週間以上村や町に入ることが出来ませんでした。 この不従順のせいで、多くの人がイエスに触れる為に清潔の掟を破って、イエスの直ぐそばに来ます。 この群衆のように自分の利益の為に私たちも簡単に掟を破る傾向を持っています。 しかし、イエスは自分の利益を求めずに律法に従います。 イエスは従順な人であり、「イエスは謙って死に至るまで従順でした」(フィリピ2,8)。 聖パウロはこの面でイエスを模範として真似たいと望みました。 「わたしは、人々を救うために自分の利益ではなく多くの人の利益を求めます。 わたしがキリストに倣う者であるように」。

    イエスが病人と死者に触れたその度に、四人の福音史家はきちんとそのことを書き記しました。 何故なら、ファリザイ派の人々と律法学者にとっては、不潔なものに触れることは大きな躓きでしたから。 確かに、イエスは病人たちの不潔を背負いますが、律法を無視するためではなく、むしろ自分自身が死と病気よりも強いという事を示すため、そして触れた人の病気を自分のものとする事を示すためです。

     三年間の間でイエスは病人に触れ、悪霊に取り付かれた人と出会い、罪びとと共に食事をし、最後には二人の強盗の間でようやく死にました。 どうしても、イエスは人間の全ての苦難を分かち合って、自分のものにしようとしました。 今日でも私たちを癒し、赦し、救うために、イエスは手を差し伸べています。 残念ながら何年間も罪の赦しを受けずに、他の人と同じように聖体拝領をする信者がいます。 罪のらい病に覆われている彼らは、自分の手でキリストの清い体を受けようとします。 この信者たちは、彼らを癒し救いたいキリストを公に軽んじているのではないでしょうか。 教会は全ての信者がせめて1年に1回、司祭から神の赦しを受ける義務があることを決めています。 福音のライ病者は、不潔な者にも拘わらず健康の恵みを主のそばに探し求めました。 皆と同じようにしないと恥かしいと思って、相応しくない状態で聖体拝領をする信者は、イエスのそばで一体何を探し求めているでしょうか。 もし万一、罪の赦しを受けないキリスト者が「司祭の所へ行きなさい」と彼らに勧めるキリストの声を聞くことが出来れば…それはとても幸いなことです。 ですからこれらの信者が、自分が罪びとであることを認め、回心して、神の赦しを受けるように祈りましょう。 同時にイエスが私たちに触れ、私たちを導き、ご自分の限りない憐れみと人を聖とする恵みの内に私たちを守ってくださるように謙遜に願いましょう。 アーメン。



     年間第11主日B年   2015614日  グイノ・ジェラール神父

         エゼキエル17,22-24  2コリント5,6-10   マルコ4,26-34

   今日の典礼のテーマは「信頼」です。 先ず、聖パウロは自分の確信を私たちに打ち明けます。 「わたしたちはいつも、安心しており、この体に住みついている間は、主のもとを離れているのだと知っています。 見えるものによってではなく、信仰によってわたしたちは生活しているからです」(フランシスコ会訳:2コリント5,6-7)と。 果たして、どのように信頼の内に生きるのでしょうか。

    預言者エゼキエルは、これについて答えようとします。 神は高い木の梢を切り取ってそれを土に植える人に似ています。 神の働きによって、段々その梢は大きくなり、そして長年に渡って、空の鳥が宿る高くそびえる木となります。 今日の詩篇の言葉は預言者エゼキエルのたとえ話を説明します。 「神に従う人はなつめやしのように栄え、レバノンの杉のようにそびえる。 私たちの神の家にそびえる」(詩編92,13-14)と。 ただ神だけが、ご自分の愛の計画に従って私たちの成長を導く主導権(イニシアティブ)を取りましたので、神に対する私たちの信頼は揺るぎないものでなければなりません。 実に、私たちは神の業の協力者であり、全く「取るに足りない僕」(ルカ17,10)であるだけです。 「わたしは植え、アポロは水を注いだ。 しかし、成長させてくださったのは神です」(1コリント3,6)と、聖パウロはコリントの教会の信徒に宛てて書きました。 私たちは神と協力する為に、出来るだけの努力をしなければなりません。しかし、それを効果的に行うのは神だけです。

    今日の福音のたとえ話は、私たちに必要な楽天的な信頼を表しています。 「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らないのです」。 種を蒔いた人は心配しても、心配しなくても、蒔かれた種は必ず成長します。 このように自分たちの周りで、私たちが気が付かない程の密かなやり方で、神がすべてを行っています。 従って神が自由に私たちの内に働くように、神に揺るぎない信頼を示さざるを得ません。

    主イエスのたとえ話は、また忍耐するように私たちを招きます。 「川の流れを押し流すな、川が自然に流れるから」とある東方アジアの諺が教えています。 ですから神のやり方を支配する事やコントロールをする事をやめましょう。 むしろ神の業を妨げないように気を付けましょう。 そして何よりも先ず、いただいた数え切れない不思議な恵みに対して、神に感謝する事を忘れないようにしましょう。 私たちの助けがなくても絶えず成長する神の国の神秘を仰ぎ見る可能性が、私たちに委ねられているからです。

    ご自分の言葉であるイエスを「永遠の命の種」として、神はこの世に蒔いて下さいました。神は主イエスによって、この世に働いておられる事を私たちは堅く信じています。 世界を攻撃する悪の力にもかかわらず、必ず神の国を来させる善で満ちた強い力があると私たちは信じています。 しかし神にとっての時の流れは、人々が体験している時とは違いますので、私たちは忍耐を示さなければなりません。 「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(2ペトロ3,8)と、聖ペトロは忠告しました。

    私たちが人生の各瞬間・瞬間を神の賜物として受ける事が出来れば、神の国が増々近くなります。 どんな形を借りても、人生は神が私たちに与えてくださる貴重なプレゼントです。 ちょうど土が種を受け入れ、その成長を尊重するのと同じように、毎日、自分の人生を受け入れましょう。 神に揺るぎない信頼を表しながら 忍耐強く、全身全霊を尽くして、生きていきましょう。 私たちの人生の縦糸と横糸の組み立て全てが、永遠の命のためである事を、今日イエスは、はっきりと教えました。 神は私たちの人生のすべての様相を使って、ご自分の国を来させます。 この不思議な愛の神秘を悟り、神に絶えず感謝することが出来る為に、聖母マリアと聖霊が私たちを助けますように。 アーメン。



    年間第12主日B年   2015621日   グイノ・ジェラール神父

        ヨブ38,18-11  2コリント5,14-17  マルコ4,35-41

   「いったい、この方は誰ですか」と今日の福音は私たちに尋ねます。 風を叱り、湖を静かにさせるための命令をするイエスはいったい誰でしょうか。 弟子たちはイエスの行われた奇跡によってよりも、彼のアイデンティティーによって非常に驚かされました。 大自然に対する権威を持っているイエスはいったい誰ですか。

   ヨブ記の神は創造主であり、大自然を支配し、また守るべき制限をこの自然界に与える神です。 ヨブ記では、海を従わせる猛獣使いのように、神はご自分を紹介します。 それに対して福音は「神の創造的な言葉」としてイエスを紹介します。 「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、万物は御子において造られました。 つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(コロサイ1,16-17)と聖パウロはコロサイの信徒に宛てて書きました。 聖ヨハネは、自分の福音の始めに同じことを繰り返しています。 「万物は言によって成った。 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった」(ヨハネ1,3-4)と。

   確かに、キリストは全てを支配します。 しかし、イエスは私たちの人間性に与ったので、彼の役割は大自然が荒れ狂う時に災いから私たちを守る事ではありません。 残念ですが、私たちは災いの時にイエスに向かって次のように叫ぶ誘惑に簡単に陥るのです。 「主よ、たくさんの人が滅ぼされてもかまわないのですか」と。 何よりも先ず神の摂理に信頼を置く事を、イエスは私たちに教えています。 どうしても、私たちの恐れと反抗の叫びは、信頼に満たされた祈り、あるいは謙遜な執り成しや祈願でならなければなりません。 私たちは次のように祈るべきです。 「主よ、私たちは弱い人間である事を知っています。 私たちの力を遥かに超える大自然の力を耐え忍ばなければなりません。 あなたは全能の神です。 あなたの子イエスが人間になった時、私たちと同じような問題とぶつかった事を知っているので、私たちはあなたを信頼します。 イエスは反抗せずに、ご自分の受難の真っ只中にあっても、ずっとあなたへの信頼を示しました。 あなたがイエスを救ったように、必ず私たちも救われる事を信じます。 ですから主よ、お願いします。 早く助けに来てください」と。

   福音の中でイエスは湖を静めたので、弟子たちが神と同じように大自然を支配するイエスと言う人はいったい誰ですかと考えるのは当然です。 しかし、弟子たちが正しい答えを見つける前に、イエスは彼らに尋ねます。 「なぜ怖がるのか。 どうして信じないのか」と。 実に信じる人は恐れてはいけないとイエスは断言します。 キリストが永遠に自分のそばに、自分と共に、また自分の内におられる事を、信じる私たちは決して忘れてはいけないからです。

   最近、世界中でキリスト者に対する迫害が益々激しくなってきていますが、私たちはそれを恐れてはいけません。 そしてまた最近、温暖化のせいで気候が不安定になり、もう気候により頼む事が出来なくなりましたが、私たちはそれをも恐れてはいけません。 戦争、地震、津波、災いにもかかわらず、恐れずにすべてを支配するキリストを自分たちの人生の支えとしながら、私たちの信仰を示さなければなりません。 私たちの信仰はキリストの教会と同じように、小さな小舟です。 しかし、この小舟は、沈む事も隠れた岩に乗り上げて壊される事も全く心配することがありません。 何世紀にも渡って教会を襲ってきたすべての嵐は、神がご自分を信じる人を効果的に守ると言う事をはっきり示しました。 キリストと一致している信者は安全であり、何も神から彼らを引き離すことがないのです。 聖パウロはローマ人への手紙の中でそれを思い起こさせます。 「わたしは確信しています。 死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8,38-39)と。

  聖パウロはまた次のように断言します。 「あなたがたの冷静な心がすべての人に知られるようになさい」(フィリピ4,5)と。 勿論、祈ってもイエスはあっと言う間に私たちの日常生活の嵐を静めることも、襲っている問題をなくす事もしません。 むしろ、私たちが冷静な心で自信を持って耐え忍ぶ事が出来るように、必要で役に立つ物事を、私たちが自分の人生の内に見つけるようにイエスは助けの手を差し伸べます。 恐れを抱いて、絶え間ない嵐に襲われて,何をしたら良いかが分からないこの世界で、皆さんが神に揺るぎない信頼を示し、冷静な心の証しによって、すべての人を驚かせるキリスト者になるように、私は神に切に祈り、願っています。 アーメン。




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